両性の平等について記載されている日本国憲法
1945年のポツダム宣言を受け入れ、連合国に降伏した日本。
1946年に日本国憲法を公布しました。
その草案を作ったのは、ホイットニー民政局長とその以下25名で構成される秘密の憲法草案委員会。
その委員会の唯一の女性メンバーが、当時22歳だったユダヤ系ウクライナ人を両親に持つオーストリア生まれのベアテ・シロタ・ゴードンでした。
彼女は、日本国憲法草案の中の「両性の平等」についての条項を担当しました。
日本国憲法 第24条は、日本国憲法の第3章にある条文で、家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等について規定している。
ベアテ・シロタ・ゴードンとは
日本国憲法の「女性の権利条項」を起草した女性ベアテ・シロタ・ゴードンは、1923年、ロシア人ピアニストを両親としてウィーンで誕生した。
父レオ・シロタ氏は著名なピアニストであり,作曲家の山田耕筰氏の招きにより東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授となるため,1929年に一家で来日した。
出典 P24-P25.pdf
彼女の家族は日常的に極めて国際的な交流を行っていました。
そのため、ベアテは子供の頃から日本語を含めた多言語に接しており、しかも日本の文化や慣習をよく理解しました。
彼女が6カ国語を自在に操ることができたことが、のちの憲法草案にも大きく役立ちます。
1939年、両親を日本に残し米カリフォルニア州の名門ミルズ大に留学。米国籍を取得した。卒業後、米誌タイムの助手として働き、終戦後の1945年末にGHQ付の通訳・翻訳官として再来日した。
出典 ベアテ・シロタ・ゴードン
ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、GHQ民政局員として日本国憲法草案作成に携わり、第14条「法の下の平等」、第24条「両性の平等の原則」の基となった条文を作成しました。
ベアテが見た「日本女性」
ベアテが見た日本社会における日本女性は、家庭では力を持っており、子供の教育や稽古事などの文化的活動については母親が決定するなど取り仕切っていたが、パーティーなどの公的な場には現れず、家庭に一生を捧げる生活をするのが常であった。
まず女性には『財産権』という自分の財産を持つ権利が認められていなかった。
ベアテさんは平成12年5月、参院憲法調査会で「男女平等」条項が誕生した経緯について詳しく証言している。
「私は、戦争の前に10年間日本に住んでいたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていた。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかった。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかった」
日本国憲法の起草に参加するベアテ
ベアテは、日本語が堪能で、日本社会の事情に精通していたことから、1946年2月、日本国憲法の草案起草に参画する。
太平洋戦争が終わると、ベアテはGHQの職員に応募し、両親が暮らしていた「第二の故郷」である日本に帰ってきた。そして民主国家として日本が生まれ変わるための「日本国憲法」の草案づくりに携わる。
彼女が参考にした他国の憲法はドイツのワイマール憲法、アメリカ合衆国憲法、フィンランド憲法、ソビエト社会主義共和国連邦憲法でした。
ベアテは、GHQと日本代表との憲法の折衝で通訳としても活躍しました。それもまたこの憲法成立に大きく貢献しています。
ベアテは制約が多く意味が深い日本語(「輔弼」など)のニュアンスをアメリカ側に伝え、時々は当時の日本の習慣について説明し日本側の見解を擁護したことで、日本政府の代表にも好感を持たれていた。
ベアテらに与えられた草案づくりの期間は、わずか9日間。彼女は持ち前の語学力と、リサーチャー時代に培った調査力を活かし、世界の国々の憲法を読み比べて、日本国憲法に明記されることになる「男女平等」の理念の土台を作ったのである。
彼女は、草案起草段階では、妊婦の健康保護や出産休暇など細目まで書き込んだという。
結局、ベアテが創り上げた非常に細かい草案部分の大半は最終的には削除され、彼女としては非常に口惜しい思いをしたそうです。
しかし、現在、非嫡出子の差別問題、母性保護や未婚、既婚から派生する問題等が未解決のままであり、その解決が求められていることに鑑みれば、ベアテの先見性には驚かされるところ大である。
彼女が考える人権についての基本精神は、憲法の根幹の一つとして反映されています。
しかし日本政府側は「男女平等」に反発・・・
草案はGHQ内部で現24条に近い案に絞り込まれたが、日本側は猛反発した。
日本政府側は、24条について『日本には男女同権の土壌はないから受け容れられません』と反対したという。
日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、大騒ぎになった。天皇制と同じように激しい議論になった。
だがGHQ側のリーダーが「この条文は日本で育ち、日本をよく知っている通訳のシロタさんが書いたもので、日本にとって悪いことが書かれているわけがありません。彼女のために通してもらえませんか」と主張して、残されることになったのである。
ベアテさんがいなければ、日本の「男女平等」がどうなっていたかわからない。その意味で、ベアテさんは日本にとって「男女平等」の母と呼ぶにふさわしい。
日本国憲法第14条、第24条
第十四条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
「いま皆さんがこれを読むと『当たり前』と思うかもしれません。しかし戦前は、まったく当たり前ではなかったのです。
ベアテが誰であれ、どんな立場の人物であったとしても、それまでなかった女性の権利を保障する条項を日本国憲法に取り込んだことは大きな功績です。
「両性の本質的平等」についての規定は、アメリカ合衆国憲法の中にさえありません。
しかし、日本国憲法にはそれが明文化されているのです。
日本国憲法は、アメリカやドイツをはじめとする世界中の憲法の『いいとこどり』をして作った憲法なんです。
ベアテの死去と最期の言葉
2012年12月30日、膵臓がんのため、ニューヨーク市内の自宅で死亡した。
89歳だった。
出典 ベアテ・シロタ・ゴードン
ニコルさんによると、最期の言葉は日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい、という趣旨だった。
出典 ベアテ・シロタ・ゴードン
ベアテさんの娘のニコルさんは「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。改正に総じて反対だったが、この二つを特に懸念していた。」と語ったそうだ。
母は、戦前の日本人女性の地位の低さを目の当たりにし、男女平等を起草した。今は、当時に比べれば向上しているだろう。
しかし、男女が完全に平等の国は世界中にないし、油断するとすぐに後戻りしてしまう。歴史を学び、女性の人権のために闘い続けなくてはならない。
ベアテ・シロタ・ゴードンの遺言は、「日本国憲法の平和条項と女性の権利を守ってほしい」でした。
その恩恵を受けている現代日本の私たちは、それをどう受け止めるべきでしょうか。
参考リンク
ベアテ・シロタ・ゴードンの遺言。日本女性の権利のために・・・(前篇) | 日本の歴史を分かりやすく解説!!
京大ナンバーワン教官が教える「勉強することのホントの意味」(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(4/6)
「9条守り 他国のモデルに」 ベアテ・シロタさんの長女に聞く | ヒロシマ平和メディアセンター
日本国憲法「女性の権利条項」起草者ベルテ・シロタ・ゴードン〜28号(2009年1月1日)弓仲
講演会「ミルズカレッジのベアテ・シロタ・ゴードンアーカイブ」ご案内/国立女性教育会館 - SENTOKYO ブログ
戦後ニッポン「男女平等」の光と影 ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去に思う(木村正人) - 個人 - Yahoo!ニュース